今日は、朝に30分のウォーキング、
そして、昨夜エンジニアさんから届いた
ドゥマシの音源を確認した。
録音当時の感覚を思い出し
自ずとお腹に力が入る。
更に、あの時より俯瞰して見ると
心にイメージとしていた
「あるべき姿」「理想の演奏」の様なもの
そして、楽器や奏者としての私の身体
その時の空間の声
両者の間で、どうバランスを取るか
一瞬一瞬、探っていた。
その意識は、録音中にも自覚があった。
陰と陽や
男性原理と女性原理といった
二元論の間なのだろうか。
理想が強すぎると
押し付けがましい
一面的な演奏になるだろう。
共感も得られにくい。
外的要因に寄るところが大きいと
提示されるものが薄口になり
なにが言いたいのかわからない。
演奏でそのバランスがどうあるべきか
答えは出ないだろうけれど。
例えば、なにか企画があって
それぞれの立ち位置を明確にしたうえで
気づいたことを伝えながら
相手の話を聞いていくうちに
「いい所」に落ち着くのを感じたり…
日常生活の、些細な場面でも
現れてくる両者のバランス感覚が
ヒントになるような気がする。
ドゥマシはガンバ1台で録音だから
こういう形で現れたけど
来月2日のシェンクなら、テオルボや
会場のお客様も含めた話になるから
また、違う両者の現れになるだろう。
「理想の演奏」を形にするだけであれば
恐らく、
その範囲を越えたものは生まれない。
外的要因を取り込むからこそ
奏者の器を離れたものも
生まれるのだと思う。
私は、録音でも
それを最大限にやりたかったのかも知れない。