ドゥマシからヒュームへ
演奏解釈としてどうありたいか。
昨日、嬉しいことがあった。
先日の、「ドゥマシの熱い鼓動」発売記念演奏会に
ご来場くださった方と
ゆっくりお話しができた。
ドゥマシの録音作品になっているものは
やはり、サヴァールによるものが筆頭に来るだろう。
昨日の方は、それをお持ちで
聴いていらしたという。
私は中学生の頃からサヴァールが好きで
深く、かつあふれる情感を尊敬している。
そして、彼のドゥマシの録音は異色で
隠遁を思わせるような演奏だと思う。
ドゥマシは、資料が残っていないが
きらびやかな宮廷生活には合わなかっただろうし
彼が打ち立てた理論は結局継承されることはなかった。
隠者のようなイメージは
私にもある。
けれど、その部分ではなくて
私は、彼が音楽史上に
生まれて、作品を残したこと
彼が生きていたことからインスパイアされた。
彼を伝えるものは彼のほんの一部であり
彼が楽器と膨大な時間対話をして
弦のうねりと血潮を重ねたものの
ほんの一部だっただろうけれど
そこを突破口に
生きた彼を掴みたかった。
そして、昨日は
サヴァールの、あの録音にずっと親しんだ方にも
熱い鼓動としての私の演奏解釈が
好評だったことが伝わり
嬉しかった。
演奏解釈はどうあるべきか
自問自答しない日はないけれど
音楽芸術の一環として
自分が見える世界を具現化するものであること
そして、作品とお客様を結びつけるために
ただの自我であってはならないこと
その、一見矛盾するかのような二面性を
心に刻むことが大切だと思う。
そろそろ、ヒュームが始まる。
来週、音楽教室の演奏会でフレンチボーを使うので
まだ、そこまでは切り替わりきらないが
それが過ぎたら、ヒュームの世界に
どっぷり浸ることになるだろう。
そして、書きたいこともいっぱい…
彼も、作曲家としての資料は少ないが
解釈として視点を当ててみたいことが
溢れ出て、やまない。
うまくまとまるだろうか。
そして、お客様に本当に喜んでいただけるものであること。
彼のことは
学術的根拠を絶対条件にしたら
きっと、何も書けない。
けれど、演奏の解釈のように
わからない中でも、感じようとすること
仮説の上でもいいから、掴もうとすることを
書いていきたいと思う。
それは、理論書ではなく
演奏者が、作品に向かう上での物語
それは決して
お客様に演奏を受け止める幅を
限定するものではないと信じている。
「Tヒュームの世界」に寄せて
そろそろ始めます。