少し前のことになるだろう。
新聞の投稿をウェブで紹介したものだったか…
塾に通うことになったお嬢さんに
ご主人が
塾代は自分が出すのだから
自分の一存で
いつでも辞めさせることができるんだ
的なことを言ったらしい。
それに対して、お嬢さんが
お金を出してもらうことは感謝する
けれど、卑怯である
稼ぐすべのない私を
それで黙らせて嬉しいか
そう言い返したらしい。
家庭内のことは、
その家庭にしかわからないが
時代は変わったのだと思う。
※※※
私は、自分の性格もあり
なるべく、子どもには
道理の通ったことを伝えようとしてきた。
それは、時には
我を出したり、
焦って無責任なことを言ったこともあったが
決して、本意ではなく
自分の立ち位置と、
中庸位置を照らし合わせて
伝えていきたいと思っていた。
けれど、
ソルフェージュで大苦戦する息子を見て
息子のある種の「感覚」を育てないまま
来てしまったようにも感じた。
※※※
息子は小さい時から
集団保育の環境にあったので
わからないことがあったら聞くように
勧めてきた。
けれど、ソルフェージュに際しては
感覚を磨くことが大切なので
例えば、As-durの
トニック、ドミナント、サブドミナント
もし、この響きがわからなくても
人に聞いた所で答えはない。
自分の感覚を拓くこと
わからなくても「わかろうとする」
そこから大切なことが始まる。
※※※
私も、課題にぶち当たって
その都度、固執した考えに
縛られていたことを自覚する。
というより
新しい考え、感覚、感性は
育てるものなのかも知れないと
息子を見て、感じる。
掴めた実感はなくても
まず、それが要求される場に身を置くことが
新しい感覚を育てることなのだろう。