「山本有三記念館春の朗読コンサート2024」に寄せて⑧
今回は、ヴィオラダガンバ演奏プログラムで
Aフォルクレの小品を取り上げる。
ヴィオルは
ルイ14世に愛された楽器であった
マレは天使のようにヴィオルを奏で
フォルクレはそれを
悪魔のように奏でる
これはユベール・ル・ブランによる
有名な言葉である。
しかし、そもそも「悪魔」とは
どんなものだろうか
当時の人々は
どんなイメージを抱いていたのか
何回かに分けて
悪魔について、探ってみたい。
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【悪魔という概念はどのように生まれたか】
古代文明では
悪魔がどのように描かれていたのだろうか。
大まかにまとめると
一つには「堕天使」の姿がある。
それは、天界から遣わされたものが
様々な事情で、その資格を失うというもので
場合によっては、人間に恋をするなど
様々なエピソードを残している。
もう一つは、異教徒、異文化を
悪魔として描いたもので
動物の姿をかたどっていることも多い。
これは、「自分たちを脅かす危険」を含んだ
異教徒、異文化の風習を
なにやら、理解できないものとして捉え
イメージも加わり
誇張されていったものであろう。
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それらは、人間が「タブー」とどう関わるか
その難しい課題に
「悪魔」という存在は
寄り添ってくれたように思う。
人間が、コミュニティを形成して
時に、曖昧な「暗黙の了解」というものでも
ルールを持って秩序を守ろうとする時
必ず、ほころびや矛盾が出てくる。
建前としては、「あってはならない」ものが
実際は、避けて通れないものということは
多分にあり得た。
建前だけ、
いわゆるわかりやすい「善」だけに
従おうとする人物像は
時に危うく、脆く描かれることがある。
そのことからも
存続しているコミュニティ外の感覚である
「悪魔」を容認することで
人間はどこかで納得し
バランスを取ってきたと言えるのではないだろうか。
🌿🌿、
フォルクレが
「悪魔のように」と形容されるのは
言うまでもなく、「称賛」なのだ。
では、なぜこれが「称賛」なのか
私は、当時の悪魔について認識に触れることで
掘り下げてみたかった。
例え、無意識のうちであっても
既成概念や、
在籍するコミュニティの「暗黙の掟」
それに従う中で生まれる、
言い得ぬ「自己矛盾」から来る葛藤に
悪魔は人知れず
手を差し伸べてくれたことだろう。
既存の常識に一石を投じることが
芸術家の一つの役割だとするならば
音楽家は、作品の、その
可視化できない抽象性
同時に心に直接作用する具体性でもって
「悪魔のように」と形容されることがあれば
その点からも
最高の称賛と言えるのではないか。
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三鷹市山本有三記念館
第15回春の朗読コンサート
朗読:野田香苗
ヴィオラダガンバ:藍原ゆき
随想『竹』他
Aフォルクレ
『ヴィオルと通奏低音の曲集』
(1747年パリ出版)より
第1組曲から「ラボルド氏のアルマンド」
第2組曲から「ブレイユ氏」「ルクレール氏」
Aキューネル
『1台もしくは2台のヴィオラダガンバと通奏低音のためのソナタ、パルティータ集』
(1698年カッセル出版)より
ソナタ11番ニ短調
Jシェンク
『楽の戯れ』
(1701年アムステルダム出版)より
組曲ヘ長調より「ガボットのテンポで」
2024年5月24日(金)、25日(土)
18:00開演
詳細はホームページをご覧ください
↓
https://mitaka-sportsandculture.or.jp/yuzo/event/20240524_25/