2025.05.24
「生命の樹」に見る、表現の陰陽についての一例

【「生命の樹」に見る、表現の陰陽についての一例】

きれいな雨降る楽庵で
薄暗がりの中、楽器を弾いていると
心地よすぎて、何もかも忘れてしまう。

東京で仕事をしていると
陽ばかり使う話をさっきしたけれど
それをより、認識する。

「イメージの具体化」
「目的を持ったアプローチ」

こういったものは
生命の樹で見ていくと
「ホド」というセフィラの働きによる。

そこに偏ると
「ケセド」というセフィラが
空虚になってしまう気がする。

「ケセド」の働きは

「現象界と高次を繋ぐ上での抽象化」
「その抽象化に見る可能性の拡大」

そういったところだけれど
こうして、言語化するところで
すでに、ケセドとは離れてしまう。

そして、「ケセド」から更に
私達の世界「マルクト」というセフィラに
届くまでには
「ネツアク」というセフィラを通る。

「ネツアク」は「官能性」を持ち
演奏表現には絶対的に必要。

頭で考えて、具体化し
理屈に偏った表現には
喜びの相が薄いのは
これが理由となる。