「フランスいにしえの吐息」に寄せて⑦
マレは、最初の公的出版物である
「ヴィオール曲集」第1巻を
リュリに献上しています。
演奏会でも取り上げる
「ヴィオール曲集」第2巻より組曲ロ短調では
「リュリ氏のトンボー」を書いています。
サント・コロンブに続き
マレの師であったと伝えられる
リュリについて触れてみましょう。
※※※
ジャン=バティスト・リュリ(1632〜1687)
リュリは1632年、
フィレンツェで生を受けた。
1646年にフランスに渡り
ルイ13世の弟の娘である
アンヌ・マリー・ルイーズ・ドルレアンの
下男となります。
彼女は音楽を保護していたので
若いリュリの才能を見出し
音楽教育を受けさせた。
1653年頃、ルイ14世の目に止まり
国王付き器楽曲作曲家となる。
その後、1660年代にかけて
王のために多くのバレエ音楽を手掛け
王自身も躍り出として出演し
確固たる信頼を築いた。
手掛けたジャンルは
コメディバレエ、宗教曲、オペラなど
その題材は多岐に渡る。
1661年、ルイ14世が親政を開始すると
リュリも宮廷音楽監督となり
フランス国籍を取得した。
1687年、床に伏した国王の当病平癒を祈願し
宗教曲を指揮していた所
指揮棒が脚に当たり、傷を負う。
その傷を拗らせ、この世を去る。
リュリの時代は
音楽の趣向に大きな変化が見られた。
快活な拍子感の舞曲が好んで取り入れられ
ルネサンスからの様式が次第に薄れていった。
サラバンド、シャコンヌ、ジーグ、パスピエなどが
新しく取り入れられ
アルマンドは拍子感を大きく変更することになった。
ルイ14世はメヌエットを愛し
宮廷舞踊に取り入れたが
恐らく、リュリの貢献によるものであろう。
楽団にも様々な楽器を置き
「フランス風序曲」の確立など
後々まで、フランス宮廷の枠を離れて
大きな影響を及ぼすことになった。
(続きます)
#フランスいにしえの吐息