【コミュニティのルールと自己対話】
https://note.com/shiny_dahlia839/n/n63f0f148efba
これの続きです。
今回の暴行事件から
ただ連想的に思ったことだけれど
子どもが中学に上がるということは
人間関係も、複雑になってくるだろうな、と。
昔、男子のコミュニティで
新しく仲間に入った子に
「洗礼」と称してわざと嫌なことをして
(ご信者さんは、こんなことに「洗礼」って
言ってほしくないですよね…)
耐えられた人を正規の仲間にする、というの
あれ、まだ今でもあるのだろうか。
女子も女子で、そういうのあった。
例えば、転校生に意地悪をしたり。
※※※
人間社会の、目に見えないコミュニティには
目に見えない、独特のルールが存在する。
新しい人に、わざと強く当たるのは
そのルールを守れるか試すものなのだろう。
子ども社会だけでなくて
大人社会でも、そういうものはある。
そして、更に怖いと思うのは
嫌な思いをして、
その上でいることにしたコミュニティから
人間は、簡単には出られなくなる。
最後には、思考力、判断力が
どんどん失われていく。
それは多分、
ギャンブルで、負けた人が
どんどん、負のスパイラルから
抜けられなくなる心理と
多分、同じこと。
私達は、人間という「種」として
そういう性質を持っているんだ。
※※※
私は、アウトローな立場にいるが
今はもう存在しない、
過去に属していたコミュニティの
見えないルールに従っていること
無意識ながら、まだまだあると思う。
人として、社会性を身につけるのは
大切なこと。
記憶に残らない程、幼い時から
家庭や親戚という小さな社会、
保育園、学校、お友だちと
順を追って、どれも小さな社会のルールがあり
その中で、そぐわない感覚を
「悪いもの」として押し殺しているところ
誰しも、あることだろう。
そして、押し殺してしまったものを
それぞれ身につけた教養とともに
対話し、解放する大切さを
この頃、よく痛感する。
私も、最近ではかなり自分の本能に従い
好き勝手に生きている実感があったが
まだまだ、外的要因に依るもの
与えられた衣をかぶっているところ
あるのではないだろうか。
自分の、本当に感覚と対話しようとすれば
それは、絶対に作品にも表れること。
※※※
私の子育ては穴だらけで
決して、褒められたものではないこと
自分でもわかっている。
けれど、自分らしくあろうとして
自分自身と戦ってきた
私のその姿勢を
息子は、いつも見ていた。
危ないことがあったとき
身の丈を知った上でどう対応できるか
指示待ちの子どもにはわからない。
自分と対話する中でしか生まれない
気づき、アイディア
それで、息子にも
自分の道を切り拓いてほしいと思う。