【「生命の樹」に見る、表現の陰陽についての一例】
きれいな雨降る楽庵で
薄暗がりの中、楽器を弾いていると
心地よすぎて、何もかも忘れてしまう。
東京で仕事をしていると
陽ばかり使う話をさっきしたけれど
それをより、認識する。
「イメージの具体化」
「目的を持ったアプローチ」
こういったものは
生命の樹で見ていくと
「ホド」というセフィラの働きによる。
そこに偏ると
「ケセド」というセフィラが
空虚になってしまう気がする。
「ケセド」の働きは
「現象界と高次を繋ぐ上での抽象化」
「その抽象化に見る可能性の拡大」
そういったところだけれど
こうして、言語化するところで
すでに、ケセドとは離れてしまう。
そして、「ケセド」から更に
私達の世界「マルクト」というセフィラに
届くまでには
「ネツアク」というセフィラを通る。
「ネツアク」は「官能性」を持ち
演奏表現には絶対的に必要。
頭で考えて、具体化し
理屈に偏った表現には
喜びの相が薄いのは
これが理由となる。